現役バスガイドの旅

慶良間諸島への上陸作戦〜歴史をたどる旅〜

こんばんは!Runa旅です。

今日は3月23日ということで、沖縄戦を語る上で外すことの出来ない慶良間諸島についてお話しします。

1945年3月23日に始まったアメリカ軍の艦砲射撃。沖縄本島への上陸作戦に先駆けて行われたのが慶良間諸島への上陸作戦です。

慶良間諸島とは?

現在ではケラマブルーと呼ばれる透き通った海の広がる場所として知られております。

沖縄本島の西約40kmに位置する大小20以上の島々がございます。周囲の島々には100を超えるダイビングスポットが点在しており、“ダイビングの聖地”とも呼ばれております。

慶良間諸島国立公園について

慶良間諸島は2014年3月5日、サンゴの日に合わせて国内31番目の国立公園に指定されました。座間味諸島、渡嘉敷島をはじめとする大小20余りの島々を指定区域となっております。そして、現在国内最大の国立公園として指定されております。

上陸作戦

当時、慶良間には日本軍の通信基地や特別攻撃隊の基地がありました。これに対し、アメリカ軍は沖縄本島上陸作戦の前の補給基地として慶良間諸島の制圧を開始しました。

艦砲射撃の開始

1945年3月23日、アメリカ軍は慶良間諸島への艦砲射撃を開始いたしました。そんな中、アメリカ軍の上陸が近いことを知った各島々の島民は山火事や艦砲射撃の中、壕への避難を開始いたしました。

アメリカ軍の阿嘉島上陸

そして、1945年3月26日8時4分。ブルース少佐率いるアメリカ軍第77歩兵師団第305連隊の阿嘉島上陸から始まりました。阿嘉島沖を埋め尽くした艦船から水陸両用車が海岸に向かって銃撃を加えながら上陸したのです。その後、速やかに海岸を占領し、街まで進撃。日本軍は険しい島の中心部に撤退いたしました。

そしてついに、26日の午後5時には島の3分の2を占領しました。そんな中に日本軍約300名、民間人約400名が島内に逃げ隠れしていたと言われております。

座間味島上陸

そして、1945年3月26日午前9時。アメリカ軍第305連隊第一上陸大隊は座間味島に進撃しました。日本軍は応戦を試みますが、海岸真後ろにある村落まで進行してきました。そのため村から北にある山の中へと撤退を余儀なくされたのです。

集団自決へ

山の中へと逃げ込んだ人々は日本軍により集められました。そして逃げ場のない人々は3月28日、ついに集団自決をいたしました。

1つの手榴弾を囲み、十数人が自決を図りました。中には持っていた小銃や鎌やくわを使い、死にきれないものは親が子を。子が親を。この世の出来事とは思えない光景の中、命をたったのです。

そして、戦後ざまざまな証言が残され今に伝えられております。

慶良間諸島で戦争の記憶をたどる

座間味島の平和の塔

座間味島には島で犠牲となられた方々を追悼する平和の塔がございます。戦争の記憶や証言を知ることができます。

阿嘉島の阿嘉島戦争遺跡

阿嘉島には日本軍の通信基地の跡が残されております。戦争を今に伝える遺跡として保存されております。


バスガイドをする上で戦争史跡の残る地域へご案内する際は戦争の流れ等をお話しさせて頂きます。そんな中、一つ思うことがあります。歴史は流れでお話ししなければなかなか背景が分からず、誤解等を生むことがあります。その為、Runa旅は沖縄の平和学習のお話をさせていただく際もそこだけをお話しするのではなく流れでお話しさせていただくことを心がけております。

事前学習等も行なっておりますので、ぜひ興味がある方はご連絡ください。

それでは、本日も最後までありがとうございました。

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