こんばんは!Runa旅です。
1月に入り、入試の時期になりましたね。まさに受験勉強まっただなかという方もいらっしゃるかと思います。精一杯勉強し、最後の神頼みといえば、学問の神様を思い浮かべます。
そんな学問の神様として崇められる“菅原道真”公をご紹介いたします。
菅原道真公は学問で朝廷に使えるお家柄にお生まれになりました。幼い頃からその才能は開花し、5歳の頃には和歌を嗜んでいらっしゃいました。
“美しや 紅の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくぞある”
これはお住まいの紅梅殿のお庭に咲く紅梅の花の美しさを読んだ句になります。感性が大変豊かな方であったことが伺えます。
その後も日夜賢明に学問に励まれた道真公。学者としても、政治家としても大変秀でたものがあり一目置かれる存在でした。26歳の時、最難関試験「方略試」に合格しました。そしてなんと、33歳には学問の最高学位「文書博士」に任じられました。
天皇様のためならば、国のためならばと任された仕事には熱心に取り組まれていたそうです。
そんな道真公は宇多天皇の絶大な信頼を受け、異例の右大臣の栄位を賜りました。
その時、左大臣の位についておりましたのは藤原氏一門でございます。妬みに妬み、なき罪を着せられた道真公は太宰府へ左遷されることになりました。
今日の京都をでて幾山川。道のりは大変なものでした。
ご到着されてからの生活は京での生活とは打って変わり大変難儀なものでした。
道真公は政庁近くの榎寺に身を寄せておりました。しかし、一度雨が降れば室内は雨漏り。夜、書物を読もうにも灯りをつけるための燃料もなく、食べるものにも事欠く生活でした。
国の平安を願っていらっしゃる道真公は地方の惨状を知り心を痛め、今まで以上に仕事に打ち込みました。
そして太宰府に来られて2年後、延喜3年2月25日に生涯を閉じられました。
死期を悟った道真公は近くの方へ伝えられた希望がございます。“牛の引く牛車に亡骸を乗せそぞろ歩きをさせて欲しい。その牛が動かなくなったところへ埋葬してほしい”という内容でした。
そこで道真公の御亡骸を牛車に乗せ榎寺を出発したところ2キロも進まないところで動かなくなりました。これは道真公のご意志であると門弟・味酒安行により埋葬されました。そして現在の御本殿の近くに祀庿が造営されました。
道真公の死後、京では落雷や不審火、疫病などが立て続けに起きました。一説には、紅梅殿のある“桑原”地区を除いてと噂されていたそうです。そのため誰言うとなく菅原道真公の祟りと恐れていたそうです。そこで、道真公を神としてお祀りすることで納めようとしたのです。
こうして天神様信仰が始まったと言われております。お墓の上には安楽寺天満宮(現・太宰府天満宮)が造営されました。
菅原道真公は学問の神、農耕の神として現在でもあつく信仰されております。
2027年に道真公薨去1125年をお迎えいたします。そのため124年ぶりの大改修が行われております。そのため改修期間は仮殿にてご参拝の方々をお迎えしております。仮殿の建設は藤本壮介建築事務所が手掛けております。屋根には木々が成長を続け伝統を引き継ぎ未来へと繋がるデザインになっております。
是非、興味を持っていただいた方はこの機会に太宰府天満宮へお出かけになってみてくださいね!
最後までご覧いただきありがとうございました。