こんにちは!Runa旅です。
本日は九州・長崎の平和学習の旅へご案内いたします。
この地は、1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分。日本で2度目の原子爆弾が投下されました。広島からわずか3日後の出来事です。たった一瞬の瞬きにより多くの命と街並みが失われました。
広島原爆については“【広島原爆の歴史】なぜこの街だったのか”もご一緒にご覧ください。
1945年7月26日。連合国は日本に無条件降伏を求める“ポツダム宣言”を発表いたしました。しかし、日本政府は明快な回答をせず、戦争は続いておりました。
8月6日。広島に原子爆弾“リトルボーイ”が投下されました。人類史上初の原子爆弾は多くの命を奪い壊滅的な被害をもたらしました。
しかし、それでも日本は降伏に踏み切ることができずアメリカは次なる原子爆弾の投下を決定いたします。
まず、当初の目標とされておりましたのは福岡は小倉でございました。
8月9日朝。B-29“ボックスカー”は小倉上空に到達いたしました。しかし、雲により目標が確認できず燃料の残量も少なくなっておりました。そこで、第二目標に掲げられておりました長崎へ進路を変更いたしました。
当時の長崎は、三菱造船所や兵器工場のある重要な軍事都市でした。それと同時に教会や外国文化の息づく国際的な港町でもありました。
1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分。長崎上空約500mでプルトニュウム原子爆弾“ファットマン”が炸裂いたしました。
爆発の威力は“リトルボーイ”よりも大きく、長崎市浦上地区を中心に壊滅的な被害をもたらしました。
浦上天主堂は当時、東洋最大のカトリック教会でした。しかし、爆心地からわずか500mの位置にあり、原爆の熱線と爆風により全壊いたしました。
奇跡的に聖母像や崩れ落ちたレンガ壁の一部、石像などが残りました。また、教会の鐘を納めておりました鐘楼ドームも一部残りました。
これらは現在に原爆の脅威を伝える資料として現在も大切の保管されております。
その後、長崎市は焦土からの復興を成し遂げました。
焼け残った廃材を集め家を成し、人々は支え合って生活をしておりました。一瞬で日常を失い、大切な人を失い…。そんな人々に生きる希望を与えたと言われたのが鐘楼ドームに守られ残ったアンジェラスの鐘と言われております。
そして、この原爆の悲劇を忘れないために1955年。“長崎原爆資料館”が開館いたしました。
毎年8月9日には平和祈念式典が行われております。
そして、現在は平和公園、中心地、浦上天主堂、如己堂など当時の様子を伝え平和を祈る場として多くの方々に訪れていただいております。
長崎は広島と共に『核兵器廃絶と世界恒久平和』を願う平和観光都市でございます。
過去を学ぶことで未来を生きる皆様の胸に刻んでいただければ幸いです。
本日も最後までありがとうございました。