現役バスガイドの旅

ひめゆり学徒隊〜想思樹の歌

ひめゆりの塔

こんばんは。Runa旅です!

今日は沖縄の勉強をしていたのですが、久しぶりに歌のノートをデータ化してました。遠方に行くこともありますので最近はiPadに資料を入れて持ち歩いています。

ところで、沖縄は歌の島とも言われるほど沢山の歌がございます。その中で今回はひめゆり学徒隊を励まし、心の支えとなった『想思樹の歌』をご紹介します。

ひめゆり学徒隊とは?

それではまず、ひめゆり学徒隊について簡単にお話しいたします。

那覇市安里にあった沖縄師範学校女子部と第一高等女学より生徒・教員240名が看護要員として動員されました。2校の愛称は“ひめゆり”でした。そこで“ひめゆり学徒隊”と呼ばれる様になりました。生徒は学業半ばに駆り出され、沖縄戦が始まる前から壕掘り等の勤労奉仕に明け暮れました。

沖縄陸軍病院へ

1945年3月23日夜、ひめゆりの生徒は引率教師と共に沖縄陸軍病院に向かいました。沖縄陸軍病院は小高い丘に40近い壕が掘られその中に粗末なベッドが並んでいました。その劣悪な環境下で生徒たちは患者のお世話に走り回りました。尿や便の片付け、食事の世話、包帯交換。飯上げや水汲みは壕の外に出て行く命懸けの仕事でした。

そんな環境下で横になり休む場所もなく、食事も少なく生理も排便もほとんどなくなりました。頭にはシラミがわき、青白く痩せ細っていきました。

南部撤退

5月22日、首里の第32軍司令部にアメリカ軍が迫り、日本軍は南部への撤退を決定します。それに伴い、5月25日には病院にも撤退命令が下されました。そこで生徒たちは患者に手を貸し、傷ついた学友を担架に乗せ砲弾の中を南部へ急ぎました。

病院関係者や教師生徒は糸満の伊原に到着すると6つの壕に分けられました。この時には医療器具や薬品もほとんど底をつき病院はその機能を失いつつありました。

ついに6月中頃にはアメリカ軍が南部へと迫り、濠も次々と攻撃されていきました。そして、6月18日夜。学徒隊に解散命令が言い渡されました。この激戦の中、解散後は自らの判断で逃げ彷徨わなければならなくなったのです。“解散命令”はアメリカ軍の包囲網の中に生徒たちを放り出すことになってしまい、その後の犠牲を増やす結果になりました。

伊原第三外科壕

伊原第三外科壕は現在のひめゆりの塔が立っているガマになります。南部撤退後、沖縄陸軍病院第三外科が入っておりました。中にはひめゆり学徒隊含む看護師や患者、住民など100名が隠れておりました。そこへ6月19日早朝、アメリカ軍の攻撃を受け80名以上がなくなりました。

ひめゆり学徒隊240名(うち引率教師18名)中、戦死者136名。

(学徒隊の他にも兵隊として入隊した生徒、部隊動員、家族と避難中に命を落とした生徒を合わせると約2000人以上の生徒がなくなりました)

想思樹の歌

勤労奉仕に明け暮れていたひめゆり学徒隊。そんな彼女たちを励まし、心の支えになった歌がございます。

まだ学校へ通っておりました時は想思樹並木をくぐり登下校しておりました。まさに思い出の景色の浮かぶ歌になります。

太田博少佐と東風平惠位先生の想いの詰まった想思樹の歌

当時、高射砲陣地を作る指揮をとっていた太田 博(おおた ひろし)少佐。地元・福島では無名詩人と称される文学青年でした。

懸命に勤労奉仕にはげむ女学生たちに心を寄せまもなく卒業式であることを聞きはなむけに詩を送りました。その詩に沖縄師範学校女子部の音楽教師・東風平 惠位(こちんだ けいい)先生が曲をつけました。そしてできた歌というのが『想思樹の歌』です。

生徒たちにとっての『想思樹の歌』

それまで軍歌ばかり歌わされていた生徒たちはこの歌に大変喜びました。胸に沁みる歌詞とメロディ。卒業式に備えて大切に一生懸命に練習していたそうです。しかしながら、卒業式に唄う様に指示されたのは軍歌『海行かば』でした。

そしてついにこの歌が卒業式に歌われることはなかったのです。

地獄と紙一重の過酷な戦場で辛くなると口ずさみ。悲しくなると口ずさみ。寂しくなると口ずさみ。いつしか彼女たちの心の支えになっていたと言われております。

現在はひめゆり平和祈念資料館を訪れていただきますと彼女たちを励まし続けたこの歌を聞くことができます。

今回はブログということで簡単にまとめさせていただきました。実際の観光バスでは景色と共にご案内しつつひめゆり学徒隊のお話もより詳しくご案内させていただいております。もちろん『想思樹の歌』もご披露させていただいております。あまり知られていないお歌ですが、ぜひ一度聴いていただきたいものでございます。

今回も最後までご覧いただき、ありがとうございます。

コメントを残す